不安視 過半数、期待が4割。
「絶対に見ないだろうと思っていた」人の内訳をみると、その半数はTV放送で初めて観ている(下図
青)。
ピカチュウの実写アレンジについて
ピカチュウに関してはほぼほぼ受け入れられている、と見てよいだろうか。
おそらく、純粋なピカチュウではなく「中身がおっさんである」という設定により、好き嫌いの議論を巧く回避している。「実写のポケモン企画」に対して「名探偵ピカチュウ」という派生タイトルを提示できた時点で、幅広いメディアミックス展開が功を奏している。
今回の実写映画ではピカチュウの赤いほっぺのでんき袋は オカメインコのように毛に乗った色として表現されている。公開時点では単なるデザイン解釈のひとつに過ぎないが、今後はこのイメージがスタンダードになっていく(ピカチュウらしさが上書きされる)のだろう。
ゲームグラフィック・公式アート・アニメ作画では、ただの赤い円で表現できていたので、毛なのか地肌なのかは明確でなかった。
これは一例で、
初代「赤緑」のデザイン変遷の記事でも触れたが、ゲーム制作時に固まっていない設定がアニメ化の際に決定するケースが多々あった。
実写映画となるとさらに細かくデザインの「解釈」を決めていかなければならなくなるということだ。
長年、アニメ版のキャラクターデザインを担当されていた一石さんの言及も興味深い。
捨てられたぬいぐるみに怨念の宿ったポケモンなので質感は想像しやすい。
他のポケモンの実写アレンジに関して
好き嫌いはともかく、「実写になるとそうなるかもな〜」という説得力は多くが感じたのではないだろうか。
作品的にピカチュウが「かわいい」ことは必須であるが、ベロリンガに舐められて顔に付く唾液が「気持ち悪い」、一歩間違えれば「不気味の谷」なバリヤード、我を忘れて襲いかかってくる野生のエイパムは「怖い」など、実写映像化となると、実在の生き物同様に"かわいいだけでは済まない"現実まで真面目に描かざるを得ないのだ。
とはいえ、むしタイプが バチュル(小さく、しかもピントが外れている)程度しか登場しなかったのは、
以前の記事の中でも触れた、
「虫」に生物的リアリティを与えすぎるとヤバい!問題が大きそうである。
アレンジや生物的解釈に賛否はあるだろうが、高い画力と氏なりにつきつめた観察行為が買われたのだろう。出来に口を出す第三者はいようとも、ここまで行動力を示したファンアートはなかなか他に見ない。
それに対して「公式の監修」が加わることでこの映画のような形に落ち着いたのだ。
どうしたいか、どこを直してほしいのか、言語化し(日本語と英語の垣根も超え)、何往復もチェックやリテイクが重ねられ、想像を絶する手間がかけられているに違いない。
1ファンが「ポケモンらしさ」がどうのこうのというレベルではない…
映画作品としての評価
実写アレンジの成果と作品全体評価は別だ。だが点数をつけるのも加点か減点かで大きく変わってきそうで難しい。
ゲームもそうであるが、映画の評価というのは難しい。自身の満足度を細かく言語化する行為は、映画を観た全員ができることではない。シナリオ(お話)、映像品質、人に薦められるか、続きをさらに見たくなったか、という複数回答可な選択肢を用意した。
個人評は、シーン単位で見どころがたくさんあるし、この映画でバリヤードのこと好きになれたし、Blu-rayや設定資料集は買うほど自分は好きだけれども、ポケモンを好きな前提が無い人には薦めづらいなぁ…という感じ。
0点か100点かではなく、異なる価値観、複数の視点で思いを巡らしてもらう目的の設問だ。皆さんの評価はどうだっただろう。
実写アレンジがゲーム表現でも将来的なゴールなのか?
0ー100、の話をした直後に申し訳ないが2択だ。
そんな日がくるか、あるいは徐々に近づいていくかもしれないが、回答者のうち87.2%が現在は抵抗感を示している。映画で表現される実写アレンジの納得と、ゲーム本篇で望まれる描写は異なるようだ。
「見た目がリアル寄りであればあるほどポケモンらしい」のか、「ある程度なデフォルメの中のある特定部位に関してほどよくリアルな感じがポケモンらしい」という複雑で狭い範囲の特徴の話なのか。
ポケモンらしさ、デザインや公式アートの変化を追う中で、一部に指摘されていたデザイン細部の「リアリティレベル」の差は 果たして「マスコット」「動物的」というキーワードが適切だったのか、公式実写表現という事例が現れた今、改めて意識して頂きたい。
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劇中の"マスコット"と化したピカチュウ型バルーンが爆破されるシーン
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同年上映ミュウツーの逆襲EVOLUTION
こちらは劇場版アニメ第一作のリメイクで、フル3DCGアニメーション作品だ。
ポケモンのリアリティとは
この設問が本題である。『リアル』とは訳せば「現実」のことだが、ファンタジーやSFの世界や架空のキャラクターが実在する空想、いってしまえば「虚構」を、あたかも実在するかのように見せる工夫、それが「リアリティ」である。
映画やゲーム、アニメは「リアリティ」を駆使して空想の世界に連れて行ってくれる。
その一例が質感のリアルさかもしれないが、見た目の話に限らない。
ギャグ漫画であれば大げさな爆発や暴力表現でも、記号化により笑いに変えることが可能な一方、逆に痛みを感じる芝居やダメージの生々しさを加えることで、暴力に対する嫌悪感を抱かせるドラマも演出可能だ。リアリティのギャップによるシュールな笑いもあり得るだろう。
特に、ポケモンどうしのバトルが欠かせないアニメでは、戦闘不能表現は「リアリティレベル」低めのぐるぐる目などに控えてられている。対して実写版『名探偵ピカチュウ』では、舞台となるライムシティでポケモンバトルが違法だったり落石でガチ瀕死になったりする。
創作において「リアリティ」は、ただ闇雲にあげていくだけでなく、強調して見せたい部分に集中して適切なレベルにコントロールされるものといえる。
TVアニメ・劇場版で長年総監督を務めてきた湯山監督のインタビュー。
ーテレビ版と映画版での違いはありますか?
湯山邦彦監督 テレビ版は、高い所から落ちても人型の穴が開く程度だけど、映画だと高い所から落ちると怪我をする。映画のほうが、リアリティの具合をちょっと上げているんです。たとえば、ロケット団が「やな感じ~」と言ってキランと光って消えるという流れは、話の展開に関わるようなシーンではやらないようにしています。
ゲーム本篇、アニメ、ポッ拳、EVOLUTION、名探偵ピカチュウそれぞれの「リアリティレベル」はそれぞれ狙いが異なり、好き嫌いはあれど、優劣で語れるものではないだろう。
どんな部分に「リアリティ」を感じられるのか、最後の設問の回答結果と合わせて見ていこう。
架空の生き物としての「リアリティ」に関して
1・実写映像レベルでなければ、リアリティが出せているとは思えない(127人 7.6%)
「実写化作品」は、実在する俳優が架空の世界に入りこんだかのような、あるいは架空のキャラクターと並び立つような『リアリティ』が必要である。CG合成に粗があったらそれに目がいってしまい"お話"に集中できない。
このようなリアリティ表現を『フォトリアリスティック』と言う。
この設問は、「写実描写だけがリアリティではない」という意識の確認である。
もちろん『フォトリアリスティック』至上主義の人もいるだろう。その許容量の狭さによってはアニメやマンガに対して軽蔑を露わにする人もいるかもしれない。
フォトリアリスティックな描写でなくとも「リアリティ」は演出できる…「リアルな描写」が美しさや面白さの全てではない…というのは、ゲームやアニメ、ポケモンを一度は楽しんだ人であれば、理解はして頂けるのではないだろうか。
2・実写とイメージが違うが、イラストやゲームを通してリアルな姿を想像してきた(1003人 60%)
『名探偵ピカチュウ』を観て、実写映像として成立しているかどうかに関わらず自身の「イメージ/予想とは違う」と感じた人は8割を超えている。
目で観た赤色や、不協和音の音色、皮膚で感じた痛み、わきあがる感情は、科学的には脳内物質のやりとりや電気信号に過ぎないが、その"赤さ" "音の響き" "痛さ" "気持ち"など言語化できない主観的な知覚のことを『クオリア』と呼ぶ。(脳科学辞典)
"ちょうおんぱ"で周囲の物を知覚するコウモリは、同じ場所いる人間と同じ景色が見えているとは限らない。実際にコウモリになってみないとその景色はわからない。
これは人によっても当然異なる。仮に色覚異常をもつ人であれば「赤と緑」の識別が難しく、感じている世界の景色(クオリア)が異なるはずだ。作品がパロディである知識があると笑ってしまうが、元ネタを知らずに鑑賞したら面白くなく何も感じないというケースも起こりうる。
自身の持つ想像とギャップがあり驚くといった経験はないだろうか。
ゲームのドット絵の第一印象が、攻略本に載っていた公式アートと異なる、"たかさ"が想像していたサイズ感と異なる、実写版の質感がイメージと異なる。
多くは、言語化、自身のイメージのすり合わせによって「慣れて」いくことでギャップを埋めていくことになる。
個人個人で異なる「想像していたポケモン像」それに感じていたリアリティというクオリアは、話題としてとりあげている一連の「ポケモンらしさ」に最も近い概念ではないだろうか。
3・ドット絵のように情報が少ない方が想像力によって逆にリアリティを得られる(261人 15.7%)
情報が少ないメデイアの方が想像の余地が大きいというロジックは、マーシャル・マクルーハンの『メディア論(1964)』における ホットなメディア/クールなメディアという考え方が近いかもしれない。
データの密度が高く受け取り手の参与度が低い「ホットなメディア」と受け取り手の参与度がより高い「クールなメディア」、前者には映画、後者にはテレビなどが例にあげられている。ドット絵グラフィックなゲームはクールなメディアで、プレイヤーの想像力で参加する部分が比較的大きいと当てはめられる。
ドット絵のグラフィックと3Dグラフィックの問題は以下がとてもわかりやすいのではないだろうか。
カバルドンの砂やコータスの鼻から出る煙などの流体エフェクト表現は、2Dグラフィックならではの表現の自由度(あるいはフットワークの軽さ)が成し得たのだろう。
3D化は立体的なリアリティを与えられたことによって、逆に演出の弱さが発生するという一例だ。例え「迫力」がカメラワークによって補えたとして、ポケモン2体以上の組み合わせ数にそれぞれ適した調整をしていくのは至難のワザだろう。
描写が細かくリアルになればなるほど考えなければいけないことが多くなる。3DCGで表現するコストの話になってくる。実際のところ高細化は、表現側の演出に必要な手数の指数関数的な増加、結果的に表現の自由度に制限が生じてしまうという側面が大きいように思う。
ソード・シールドの「ダイマックス」及び、戦闘イベントはそのような 巨大化というある意味力技とシステムで補う、HD画質時代のゲーム演出といえる。
ホラー映画では、画面の暗さ、見辛さによって恐怖心が煽られる効果もあるだろう。投稿型心霊写真、心霊ビデオ系はHD化と共に作り物感が露呈しやすくなってしまった。
逆にホラーゲームがVRゴーグルのような技術によって、リアリティが向上しつつも視野の狭さがちゃんと恐怖を担保するという事例もある。
はたして「ダイヤモンド・パール」がリメイクされるとしたら、恐怖スポットである「もりのようかん」はどのような演出になるだろうか。DS時代の"あの感じ"は現在再現可能だろうか。
ドット絵と想像力の関係は、かつてのクールメディアな概念に沿った側面もありながら、
表現者の創意工夫によっては一概にはそうだとは言い切れないかもしれない。
4・イラストの絵柄、デザインの質、カラーリングなどでリアリティは変動してしまう(485人 29.2%)
これは公式アート、キャラクターデザイン要素のみを指した、静止画でのリアリティ表現を指している。これまで「ポケモンらしさ」関連記事で観てきたポイントはこれらが該当するかもしれない。
デジモンなどの他作品、シリーズの新旧を比較して「ポケモンらしいリアリティレベル」が存在するのではないか、というひとつの観方だ。
5・静止画では感じられないが、アニメーションによってリアリティを感じた(316人 19%)
モノクロのドット絵から生まれたポケモンデザインではあるが、アニメ化によって動く姿が描かれてきた。ゲーム内でも登場時に動きがある「クリスタルバージョン」や「ブラック・ホワイト」の常時アニメーションするドット絵グラフィックも経てきた。
動いている姿の想像を補助する要素としての、アニメーションだ。これも情報量の増加だが、「動く前が良かった」という話はあまり聞かない。リッチな表現として基本的には歓迎されているだろう。
「ポケモンスタジアム」や「ポケモンバトルレボリューション」などと比較して動きのパターンの変化、姿勢などの変化に対してはネガティブな言及も見られ、3D化以降のアニメーションの変化飛び続けているネイティオなどのひこうポケモンの一部が例としてあげられる。
背中から出す炎が攻撃モーション扱いとなり、常時の姿のシルエットが変わってしまったヒノアラシ、マグマラシ、バクフーンなど、リアリティの方向性が不評というパターンもある。
6・TVアニメの声優の芝居によって リアリティを得た(266人 16%)
ゲームの中のポケモンの鳴き声と、アニメの声優の芝居による鳴き声は表現が異なる。
後者は、「ピカチュウ!」と何故か自身の種族名を発声する謎表現が通例になっているが、セリフがないのにも関わらず、声のトーンを細かく変化させ感情表現が込められた巧みな声芝居によって、わかりやすさと共に受け入れられ、現在も定着している。
ゲーム版の『名探偵ピカチュウ』も、主人公のピカチュウ以外のポケモンたちはアニメ準拠の声優による鳴き声が採用されている。
トレーナーが活躍する『ポケモンマスターズ』でワザを使う度に機械的に発声される掛け声と、物語の連続の中の文脈に沿った感情を込めた発声による芝居もまた性質が異なるだろう。
トレーナーである主人公の呼びかけに対するポケモンの応答という連続した感情のやりとりが感じられるだけで、テキストで読ませる以上に「絆」などの関係性を演出できていると考える。
デフォルメに近いデザインのアニメーションであっても、作品によっては実写作品に劣らないドラマ演出が可能なのは、偏に声優の芝居の賜物といって良い。
ある意味「フォトリアリスティック」さを捨てて、視覚的な情報よりもリアリティが人間と人間の芝居に集中しているのはひとつの利点とも言える(ケースバイケースだが)。
ただしポケモンの場合、声優の芝居による鳴き声である以上、擬人化された動物の感情(代弁)表現 というリアリティレベルではある。
7・10年近く引き継いできた 捕まえたポケモンのデータはリアリティを伴った存在だ(558人 33.6%)
交換の仕組み自体は、互いのセーブデータの一部のコピーと削除を同時に行っているに過ぎない。だが、「通信中の移動アニメーション」や「別れの間」を設けることによって、本当に自分のポケモンが去っていき、相手のポケモンがやってきたように感じられる。
「虚構」のデータだが、あたかもポケモン実在するかのように見せる工夫と演出、これぞ「リアリティ」と言えよう。
金銀クリスタルで一度断絶(通信互換切れ)してしまったが、ルビー・サファイア以降は、ポケモンの個体は次世代へ引き継げるようなり、18年近く同じポケモンを引き継いできた人もいるかもしれない。ただのデータではない「自分のポケモン」という実感を伴ったリアリティだ。
ソード・シールドではつれていける種類が制限され、ポケモンファン界隈は非常に荒れてしまったが、ポケモンの原点、本質を問われる問題なので、致し方ない部分だと考えられる。
以降は
PokemonHOMEがそれを担っていくとのことだが、未だ活用ビジョンの全体像が見えてきていない段階である。DLCや今後の作品次第だろう。
8・PokemonGOのように現実を歩いて捕まえたり、AR映像を通すとリアリティを感じる(388人 23.4%)
ARとは、Augmented Realityの略で『拡張現実』と訳される。
バーチャルリアリティ =
VRが、空想の世界をTV画面やVRゴーグルの中で再現される「仮想世界」だとしたら、ARは現実世界に架空のキャラクターを引っ張り出してやろうという発想だ。
3DS「ポケモン立体図鑑」のARマーカー、ARサーチャーなどPokemonGO以前からARには積極的であったが、初代ポケモンが作られた目的である、通信交換そのものがAR的とも言える。
PokemonGOでは、現実世界の時期や場所、天候によって出現しやすい「ポケモン(種)」が変わる。
「AR+」を用いて撮影すると「ポケモン(個)」が現実の背景に実在するかのような映像や写真が撮れる。撮影後の静止画よりも撮影中の映像の方が実感が大きいだろう。
9・所詮は作り物なので 映画だろうとゲームだろうと リアリティはない(112人 6.7%)
どれも架空に過ぎないという冷めた観方も選択肢として用意した。
この場合は、「作り物なのでリアル(現実)ではない」という言い方にすると、誰しも否が応でも理解している事実だろう。『名探偵ピカチュウ』を鑑賞し終えて映画館を出たら現実にはポケモンがいない事実に打ちひしがれた、という感想も多く見かけた。
まとめ
逆に言えば。
アイドル(直訳すると偶像)を応援することもそれに近い。プロレスを楽しむことも近いだろう。超能力やUFO、幽霊などオカルトをちょっぴり信じてみたり。
魔法、錬金術もかつて信じて研究してきた先人たちの歴史が現代科学へ繋がっている。
現代には実在しない恐竜の姿を化石から想像する。それもまた、どんなに科学的、現実的な姿を求めようとも、新たな発見によってそのリアルは簡単に覆ってしまう。
子供たちを夢中にさせた怪獣は、かつての古い学説の恐竜復元図から着想したモンスター群である。
ポケモンもまた、怪獣たちの系譜をもった、ちょっぴり信じてみたいリアリティなのではないだろうか。
以上、『名探偵ピカチュウ』から思いを巡らせたリアリティの話はおしまい。
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